料理を負担に感じる人が増えていると聞く。昔に比べて現代は忙しくなった。食事ぐらいはちゃんとしないと、と思っていても、へとへとに疲れて帰ってきては料理をする元気もない。
私もそんな一人で、息子が生まれて子育てが始まってから、料理が苦痛になった。
もともと私は料理好きだ。でも忙しいせいで、『料理』が自分に課せられたタスクの一つだと感じてしまう。
そんな料理に関する悩みを解決してくれたのが、料理研究家、土井吉晴先生の『一汁一菜でよいという提案』。
そもそも今の家庭料理は、昔に比べて豪勢である。
日本で長らく食べられてきたのは、一汁一菜を型とする食事。一汁一菜とは、ごはんと具沢山のお味噌汁に、漬物などの副菜を合わせた食事のこと。
戦後、外国から肉や魚などを主食とする食事の型が一般化した。しかしこれは本来の日本の食事ではない。当然作るのに労力も時間もかかる。ストレスもある。
ここで、日本の家庭料理を昔ながらの一汁一菜に初期化しよう、というのがこの本の趣旨である。
この視点が私には驚きだった。主人が家にいる日は、「何を作ったら栄養バランスが取れて、家族が満足してくれるだろう?」と頭を悩ませている。でも普段一人で食事をする時は、『ご飯、お味噌汁、納豆』だけで満足していた。この、家に一人でいるときの手抜きご飯こそが日本の本来の食事だったなんて。
つい『手抜き』と書いたけれど、手抜きなんかではない、と土井先生は言います。
素材を生かすには、シンプルに料理をすることがいちばんです。ところがこの頃は、先述のように、手を掛けなくてはいけない、手を掛けたものこそが料理だと思っている人が多い。(中略)手の掛からない、単純なものを下に見る風潮がお料理する人自身のハードルを上げ、苦しめることになっているのです。
一汁一菜でよいという提案(土井吉晴著) p29より抜粋
日本には、元来「ケ」と「ハレ」の概念がある。
普段の暮らしの食事は「ケ」にあたるので、つつましく、丁寧にシンプルに食材を調理して食べる。特別な「ハレ」の日は、お祭りの日。神様のために手間を惜しまずに料理をして、自然に感謝をささげながら食べる。
この相反する食事の概念が、現代の家庭料理ではごっちゃになっている。だから、忙しい人たちが毎日「ハレ」の料理を作ろうとして、疲弊していることは理にかなっていない。
土井先生がこう言ってくれていると、自分の普段の料理でいいんだ、と救われた気分になる。SNSや料理番組で、豪華な料理の情報は沢山流れてくるけれど、それに振り回されることはないんだなと思えた。
食事は一汁一菜でいい。と考えると、普段の生活で自分はいかに無理をしてきたんだろうか、とと思える。
最近は「持続可能」な社会を目指す取り組みが各地で行われているけれど、まずは自分自身の生活が「持続可能」で、無理のないようにしなければならない。
家庭料理に関わる約束とはなんでしょうか。食べることと生きることのつながりを知り、一人ひとりが心の温かさと感受性を持つもの。それは、人を幸せにする力と、自ら幸せになる力を育むものです。
一汁一菜でよいという提案(土井吉晴著)p96より抜粋
私は、ストレスや不満は、コントロール感の欠如から生まれると考えている。日常でコントロールできないものが身の回りに多いほど、不満を持ちやすい。例えば気分が暗くなるようなニュースや、長時間の労働時間とか。
逆に言えば、毎日変わらず、コントロールできるものに接し続ければ、それは自分の精神的な拠り所になる。
土井先生の一汁一菜は、家庭に秩序を取り戻す一つの方法だ。一汁一菜の食生活なら、誰でもできる。一汁一菜を起点として、無理なく、心身共に健康的な生活が送れると思う。
私も、この本を読んでから一汁一菜を実践している。もちろんすべての食事を一汁一菜にしたわけではないけれど、食事へのハードルがかなり低くなった。
ご飯と、お味噌汁があればOK。もし追加で何か作りたいと思ったら作る。それだけで、普段の食事はより楽しくなるし、自分の労力が当然のものだと卑下しなくなる。